沖縄に動員・従軍させられた元朝鮮人軍夫らの
「太平洋戦争・沖縄戦被徴発朝鮮半島出身者恨之碑」建立をすすめる会
〒904-2172  沖縄市泡瀬3-18-6-402
e-mail:info@hannohi.com
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安仁屋政昭 さん
 1934年沖縄県恩納村に生まれる。現在沖縄国際大学名誉教授。日本科学者会議会員、歴史教育者協議会、沖縄平和ネットワーク代表世話人。
 主な著書に、「沖縄の無産運動」、「沖縄戦再体験」、「裁かれた沖縄戦」など、ほかに多くの論文がある。

次回、第5回は、4月に小橋川清弘さん(読谷村史編集係長)を講師に招いて、軍夫の方たち関する証言について開催する予定です。
どうぞお楽しみに♪

 
主催:てぃんさぐとポンソナの会
連絡先:〒904-2172 沖縄市泡瀬3-18-6-402
TEL&FAX:938-5572

沖縄に動員・従軍させられた元朝鮮人軍夫らの「太平洋戦争・沖縄戦被徴発朝鮮半島出身者恨之碑」を建立する会が発足しまた。
 私たちは、この運動を推進し学び合いの場として、ほうせん花を表わす「てぃんさぐとポンソナの会」を始めることにしました。
 ほうせん花で爪を染める共通のなつかしい習慣に思いをこめて、朝鮮と沖縄の双方の文化、関係史そして現状を学ぶ場として、これから連続講座を開催していきます。
講座への参加とともに「恨之碑」建立にご協力ください。

第3回講座
沖縄戦と朝鮮人強制連行 講師:安仁屋政昭
日時 2月25日(金) 19:00〜(18:30 開場)
会場 沖縄国際大学厚生会館4階ホール
参加費 \1.000(一般) \500(大学生) \100(高校生)


 沖縄戦のとき、朝鮮半島から多くの若者たちが、沖縄の戦場に強制的につれてこられました。しかし、その実態については、明らかにされていません。沖縄戦では、沖縄島と周辺の離島、宮古・八重山諸島の各地に10万人余の「天皇の軍隊」が駐屯しました。しかし激烈をきわめた戦場の最前線には、強制連行された朝鮮半島出身者の青年たちが港湾荷役、陣地構築、砲弾運びに雑役夫として動員されたのです。
 第4回講座は、沖縄歴史教育者協議会員の安仁屋政昭先生を講師に学びます。

「沖縄戦と朝鮮人強制連行 上」
(2004年12月14日 琉球新報・文化欄掲載)

 沖縄戦のとき、朝鮮半島から多くの若者と女性たちが、沖縄の戦場に強制的につれてこられた。しかし、その具体的な実態については、明らかにされていない。
 日本は、1910年(明治43)に「大韓帝国」を併合して植民地とした。この事実を、「韓国併合」とか「日韓併合」といった。現在の大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の範囲である。

 日本の植民地支配によって、朝鮮半島の人々は土地と資源を奪われ、各地に流浪することになった。韓国併合のころ、日本にいた朝鮮半島の人は2000人ほどであったが、1930年(昭和5)には30万人、1940年(昭和15)には119万人、1944年の内務省統計によると、196万人余に達した。当初は「募集」というたちで、炭鉱や工業地帯に来たものであるが、「官斡旋」といって日本の行政機関が半ば強制的につれてきたものであった。

戦時体制が強化されるなかで、1939年(昭和14)、軍需生産に国民を総動員するために「国民徴用令」が公布され、1944年9月には植民地の朝鮮にもこれが適用された。これ以後、大々的な「強制連行」が実施され、軍需工場だけでなく、中国大陸や太平洋地域の戦場における港湾荷役・陣地構築・砲弾運びなどに朝鮮の若者たちが「軍夫」として動員された。「軍夫」は戦場の雑役夫という意味である。

 朝鮮半島の女性たちも、軍需工場や戦場に動員された。その多くは、日本の軍人たちの「性の奴隷」であった。これを、日本人は「従軍慰安婦」とか「軍隊慰安婦」と言っているが、みずからの意思で売春をしたわけではないから、「慰安婦」という表現には問題がある。当時、日本には男性の性のはけ口」として遊郭があり、公娼精度があったから、女性を「セックスの対象」としか考えない男性が多く、人権無視の思想を今日でも引きずってきているのであろう。

 沖縄戦では、沖縄本島と周辺離島、宮古群島、八重山群島の各地に10万人余の軍隊が駐屯した。軍隊の駐屯地には、例外なく「慰安所」が設置され、その数は130ヶ所以上と推定されている。「慰安所」には、日本本土の遊郭や沖縄の辻の遊郭からも女性たちが来ていて、これらの女性は主に将校が相手だった。

 朝鮮半島から連行された女性たちは、一般兵士の性の奴隷とされた。年齢は13歳から30歳くらいの人たちで、「朝鮮ピー」と蔑称された。ピーというのは、もともと日本海軍の隠語で、英語のProstitute(売春婦)の頭文字をとって「P(ぴー)」といったもので、これが一般にも広まり、差別と人権無視が平然と行われたのである。民間の家屋を接収して「慰安所」としたが、簡易旅館やムラヤー(村屋=村の集会所)や診療所なども「慰安所」とした。沖縄戦に連行された朝鮮半島の若者(軍夫)1万人から2万人、「慰安婦」として連行された女性は1000人以上と見られている。


「沖縄戦と朝鮮人強制連行 下」
(2004年12月15日 琉球新報・文化欄掲載)

  防衛庁の戦史では、各基地ごとに日本軍将兵の死没者数を明確にしているが、強制連行された朝鮮人軍夫や「慰安婦」については、すべて「不詳」の2文字で片づけている。朝鮮半島の人たちを虫ケラのようにみていた「天皇の軍隊」の考え方の反映である。これらの軍夫や「性の奴隷とされた女性たち」の運命にたいする無関心と無責任が、そのまま防衛庁の公刊戦史と一般の戦史にも継承されているところに問題ある。

 沖縄体験が語られ、戦争への反省が論じられる場合、みずからの被害に関しては比較的多く取り上げられてきたのにたいし、戦争への加担を強いられた側面からの責任追及は弱かったといわねばならない。日本においては、極東裁判その他の場面においても、アジア諸国人民と日本国民の立場からの戦争責任追及はなされなかった。日本人は、みずからの被害を通して支配階級・戦争指導勢力の罪状をあばくことを怠り、アジア諸国人民にたいする加害に加担したことへの反省を欠くことになったのである。

 日本の支配階級が、国民の耳目をふさいでアジア・太平洋諸国への侵略を強行したことは、すでに明らかである。この支配階級総体の犯罪と、そのなかにおける支配層個々の責任を追究する必要がある。支配階級をつくりだした「戦争の論理と論理の全体系」と、そのなかで誰が何をしたかを告発しなければならない。歴代の日本政府は、強制連行やアジア・太平洋の人々の苦悩については、調査もせずに放置してきた。日本人は、それを許してきたのである。

 日本国の責任において、強制連行の実態を調査して公開し、それにもとづいて被害に見合う補償を実現する必要がある。さらには、国家対国家の取引で補償問題を解消するのではなく、国家対個人の関係においても国の責任を明らかにしなければならない。
 アジア・太平洋の人々を戦禍にまきこんだことについて、痛みを持って思いおこすことがなければ、また、植民地支配を通して日本人が加害者の立場にあったことを、きびしくみずからに問うところがなければ、友好も連帯もあり得ない。沖縄県民は、沖縄戦における「朝鮮人強制連行」の実態が明らかにされ、広く国民に知らされることを、みずからの生き方の問題として、真剣に見つめている。

 沖縄本島の摩文仁の平和祈念公園に「平和の礎」がある。沖縄戦で死んだ敵も味方も「恩讐を越えて対話」し、21世紀の平和を展望しようという理想のもとに、戦没者の名前を石碑に刻んだものである。ここには、強制連行された韓国や北朝鮮の戦没者も刻銘されるように石碑が用意されているが、その石碑の大部分が空白のままになっている。なぜか。「拷問・虐殺され、性の奴隷とされた人々」の遺族が、「天皇の軍隊」と同じ場所に、同胞の名前を刻むことに違和感を持つのは当然である。

 「恩讐を越えて対話」という理想は立派だが、ことがらは単純ではない。「戦争責任に時効はない。ヒトラーもアンネ・フランクも同列に刻銘、というわけにはいかない」という韓国の遺族の言葉に心うたれる。


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