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2005年夏の完成を目標に、沖縄を中心に、全国で「太平洋戦争・沖縄戦被挑発朝鮮半島出身者恨之碑」建立の運動が進められている。建立の場所は沖縄。1998年に運動が始まった時、「恨之碑」は1基、座間味村阿嘉島と宮古島平良市にそれぞれ1基ずつの計3基の計画であった。その後、沖縄の2基を1基に統合することに変更された。つまり韓国と沖縄に向かい合う形で同一の碑を1基ずつとの構想である。
幾多の悲劇を生んだアジア太平洋戦争、そして沖縄戦。その終結からすでに半世紀以上が経過した。この間、その実相を明らかにし、犠牲者を追悼するとともに、歴史の教訓を後世に語り継ぐ平和創出の努力が続けられてきた。沖縄県の「平和の礎」もこうした努力の1つであり、また、その他にも多くの取り組みがあった。例えば、座間味村阿嘉島での元朝鮮人軍夫の招魂祭りと韓国・慶尚北道・慶山郡での慰霊碑建立、渡嘉敷島での「日本軍慰安婦」のための「アリラン慰霊のモニュメント」建立、久米島の「久米島在朝鮮人痛恨の碑」、摩文仁の「韓国人慰霊塔」、その他である。
しかし、沖縄に数千人から数万人が強制連行されたといわれる朝鮮人軍夫の存在と悲劇は、今なお闇に埋もれたままである。彼らは丸腰のまま敵襲にさらされ、満足に食料も与えられないまま、港湾荷役や武器、軍需物資の運搬、掩蔽壕堀りなどに従軍させられた。その中で多くが戦死し、餓死し、さらに「スパイ」「軍紀違反」の名目で日本軍によって処刑される者すらいた。しかしこのような事実は公式の記録にはほとんど残されていない。日本政府は朝鮮半島から沖縄戦に何人動員し、何人死傷させたのか、誰が戦没し、誰が生還したのか、これらの事実を明らかにしていない。摩文仁の「平和の礎」への刻銘も朝鮮半島出身者はわずか423人(2004年6月23日現在)にすぎない。
1997年7月、韓国・慶尚北道・英陽郡在住の姜仁昌さんが沖縄で開かれた「平和と民主主義をめざす全国交歓会」に参加された。阿嘉島で同胞12人が空腹のあまり稲穂や芋を盗み食いした科で日本軍によって銃殺されるのに立ち会わされた体験を証言した姜さんは、「今も異郷でさまよう犠牲者たちの遺骨を故国に持ち帰り手厚く弔いたい。そのために、日本の心ある人々の支援をお願いする」と痛切に訴えられた。同年12月、再び沖縄を訪れた姜さんは、多くの人々の協力によって遺骨調査に取り組むことができた。
この調査には、姜さんと同じ慶尚北道の出身で、宮古島へ連行され、米軍の空襲によって200人もの同胞が荷役作業中に船もろとも海の底に消えるのを目の当たりにした徐正福さんも参加された。姜さん同様「亡き同胞の霊を弔いたい」と強く願ってのことだった。阿嘉島での調査は、処刑現場の特定など多くの成果を得たものの、遺骨そのものはもはやそこには存在せず、戦後まもなく、地元の人々によって集骨され、沖縄のどこかの慰霊塔に合祀されたと推察することができた。
この調査を経て、「遺骨を故国に持ち帰りたい」との願いに1つの区切りをつけ、韓国と沖縄の双方に追悼と祈念の碑をということになった。碑の制作は読谷村在住の彫刻家・金城実さんが引き受けてくださった。1998年金城実さんと関係者たちは韓国を訪問、姜さん、徐さん、遺族会の方々と碑について具体的に話し合い、碑の名を「太平洋戦争・沖縄戦被挑発者恨之碑」と決めた。
ブロンズのレリーフは横2メートル、縦2・5メートル。朝鮮人軍夫が目隠しされ、後ろ手に縛られて、日本兵に銃床で殴られ引き立てられる。その凛とした姿。それを引きとめようと息子の足に取りすがる号泣の母親。そして軍国主義国家の先兵とさせられた日本兵の哀れな加害者の表情。レリーフは日韓の不幸な歴史を抉り出す誠に強烈なものだった。ごく普通の穏やかな慰霊碑を予想していた韓国の方々は、当初はこのデザインに戸惑われた。しかし真剣な討議の末、一同はこの構図の持つただならぬ意味を悟り、それを良しとするに至った。
そして同年12月、那覇市の「てぃるる」で16人の呼びかけ人によって「太平洋戦争・沖縄戦被挑発者恨之碑建立をすすめる会」が発足。1,000万を目標に全国募金が始まった。短期集中の運動の結果、半年にしてブロンズのレリーフは完成。1999年8月12日慶尚北道・英陽郡で「恨之碑」の除幕式および韓日文化交流祭が盛大に行われた。日本植民地支配からの独立記念日「光復節」の8月15日をと望んだが、諸般の事情で12日となったものである。
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