沖縄に動員・従軍させられた元朝鮮人軍夫らの
「太平洋戦争・沖縄戦被徴発朝鮮半島出身者恨之碑」建立をすすめる会
〒904-2172  沖縄市泡瀬3-18-6-402
e-mail:info@hannohi.com
トップページ 趣意書 背景&経過 呼びかけ人 てぃんさぐとポンソナの会 リンク集
   



  沖縄恨之碑建立に寄せて

 2004年9月22、23日付けの本紙文化欄に、私は 「韓国と沖縄に恨之碑"を」と題して寄稿した。韓国から沖縄戦に強制連行され、多くの同胞たちの死の中から九死に一生を得た 2人の元日本軍軍夫らのよびかけにこたえる、「恨之碑」建立についての一文であった。朝鮮人軍夫が目隠しされて後ろ手に縛られ、 日本兵に銃床で追い立てられている。その足にとりすがる号泣の母。これら3人の像を配した碑の第1号は1999年韓国慶尚北道ヨンヤン 郡に建てられた。慶尚北道は朝鮮人軍夫が一番多く沖縄に連行された場所である。それから7年を経て第2号基が読谷村瀬名波の高台に 除幕されることになった。

 「恨之碑」と聞いて、日本人に差別虐待された朝鮮人 の「恨み」を訴える碑を建てるのかと、眉をひそめた人がいた。碑の名の「恨」は日本語で言う「恨みつらみ、その先にある復讐」 が当然であるような、仕打ちを受けた者が、その傷を忘れるのでも、水に流すのでも、あたかもなかったかのようにするのでもなく、 逆に心の底に深く刻みながらも、それを乗り越え、バネにして、新しい共生の道を築いていこうとする未来志向の思想を表す言葉 である。

 ある在日の人は言った。 "さびついた鉄が打たれていくうちにいぶし銀の輝きを発するようになる。「恨」とはまさにそれだ"と。ある一人は言った。 "恨とは究極のところ「希望」なのだ"と。私たちは、「いぶし銀のように輝く希望」の碑を建てることを決意し、ついに 7年かけてそれを成し遂げた。

 06年5月13日午後2時、沖縄島の米軍上陸の歴史的な地、 読谷村の一角で除幕式が行われる。無念の死を遂げ、遺骨の故国帰還すらかなわなかった同胞の追悼記念碑をと訴えた元 日本軍軍夫の姜仁昌さん、徐正福さんも老齢の病身を励まして出席される。

 韓国の第1号基は「太平洋戦争・沖縄戦被挑発者恨之碑」 と命名された。沖縄の第2号基はを私たちは「アジア太平洋戦争・沖縄戦被徴発朝鮮半島出身者恨之碑」とした。対象を韓国に限らず、 北朝鮮を含む朝鮮半島全域に被追悼者を軍夫に限らず日本軍の性奴隷にされた女性たちに拡大した。さらに「太平洋戦争」をアジア の視点からとらえることが妥当だと考えたからである。同時に、碑を広範囲の仲間たちで担うため、 呼びかけ人を沖縄人・日本人に限らず朝鮮半島在住者、在日、在沖朝鮮半島出身者に拡充した。

 記念碑は建立当初はそれなりに 尊重されるが、時の経過の中で次第に記憶から遠ざかってしまう運命に遭うことが多い。私たちは「恨之碑」をそのような ものには決してしてはならないと考えている。何のために「恨」之碑を建てるのか、その意味を深く共通理解し、 次世代に確実に継承させるために「てぃんさぐとポンソナの会」という学習会を、これまで10回開いた。建立後も それは継続される。

 ちなみに、「ポンソナ」 とは沖縄の「てぃんさぐ」つまりホウセンカのことである。ホウセンカで爪を染める沖・朝共通の習慣からの名称である。 皆で愛護し、歴史の学びとして共生平和への教材として用いてほしい。
問い合わせは、「恨之碑建立をすすめる会沖縄」、電話・ファクス098-938-5572。


 
(2006年5月9日 沖縄タイムス・文化欄掲載)


 

 2005年夏の完成を目標に、沖縄を中心に、全国で「太平洋戦争・沖縄戦被挑発朝鮮半島出身者恨之碑」建立の運動が進められている。建立の場所は沖縄。1998年に運動が始まった時、「恨之碑」は1基、座間味村阿嘉島と宮古島平良市にそれぞれ1基ずつの計3基の計画であった。その後、沖縄の2基を1基に統合することに変更された。つまり韓国と沖縄に向かい合う形で同一の碑を1基ずつとの構想である。

 幾多の悲劇を生んだアジア太平洋戦争、そして沖縄戦。その終結からすでに半世紀以上が経過した。この間、その実相を明らかにし、犠牲者を追悼するとともに、歴史の教訓を後世に語り継ぐ平和創出の努力が続けられてきた。沖縄県の「平和の礎」もこうした努力の1つであり、また、その他にも多くの取り組みがあった。例えば、座間味村阿嘉島での元朝鮮人軍夫の招魂祭りと韓国・慶尚北道・慶山郡での慰霊碑建立、渡嘉敷島での「日本軍慰安婦」のための「アリラン慰霊のモニュメント」建立、久米島の「久米島在朝鮮人痛恨の碑」、摩文仁の「韓国人慰霊塔」、その他である。

 しかし、沖縄に数千人から数万人が強制連行されたといわれる朝鮮人軍夫の存在と悲劇は、今なお闇に埋もれたままである。彼らは丸腰のまま敵襲にさらされ、満足に食料も与えられないまま、港湾荷役や武器、軍需物資の運搬、掩蔽壕堀りなどに従軍させられた。その中で多くが戦死し、餓死し、さらに「スパイ」「軍紀違反」の名目で日本軍によって処刑される者すらいた。しかしこのような事実は公式の記録にはほとんど残されていない。日本政府は朝鮮半島から沖縄戦に何人動員し、何人死傷させたのか、誰が戦没し、誰が生還したのか、これらの事実を明らかにしていない。摩文仁の「平和の礎」への刻銘も朝鮮半島出身者はわずか423人(2004年6月23日現在)にすぎない。

1997年7月、韓国・慶尚北道・英陽郡在住の姜仁昌さんが沖縄で開かれた「平和と民主主義をめざす全国交歓会」に参加された。阿嘉島で同胞12人が空腹のあまり稲穂や芋を盗み食いした科で日本軍によって銃殺されるのに立ち会わされた体験を証言した姜さんは、「今も異郷でさまよう犠牲者たちの遺骨を故国に持ち帰り手厚く弔いたい。そのために、日本の心ある人々の支援をお願いする」と痛切に訴えられた。同年12月、再び沖縄を訪れた姜さんは、多くの人々の協力によって遺骨調査に取り組むことができた。

 この調査には、姜さんと同じ慶尚北道の出身で、宮古島へ連行され、米軍の空襲によって200人もの同胞が荷役作業中に船もろとも海の底に消えるのを目の当たりにした徐正福さんも参加された。姜さん同様「亡き同胞の霊を弔いたい」と強く願ってのことだった。阿嘉島での調査は、処刑現場の特定など多くの成果を得たものの、遺骨そのものはもはやそこには存在せず、戦後まもなく、地元の人々によって集骨され、沖縄のどこかの慰霊塔に合祀されたと推察することができた。

 この調査を経て、「遺骨を故国に持ち帰りたい」との願いに1つの区切りをつけ、韓国と沖縄の双方に追悼と祈念の碑をということになった。碑の制作は読谷村在住の彫刻家・金城実さんが引き受けてくださった。1998年金城実さんと関係者たちは韓国を訪問、姜さん、徐さん、遺族会の方々と碑について具体的に話し合い、碑の名を「太平洋戦争・沖縄戦被挑発者恨之碑」と決めた。

 ブロンズのレリーフは横2メートル、縦2・5メートル。朝鮮人軍夫が目隠しされ、後ろ手に縛られて、日本兵に銃床で殴られ引き立てられる。その凛とした姿。それを引きとめようと息子の足に取りすがる号泣の母親。そして軍国主義国家の先兵とさせられた日本兵の哀れな加害者の表情。レリーフは日韓の不幸な歴史を抉り出す誠に強烈なものだった。ごく普通の穏やかな慰霊碑を予想していた韓国の方々は、当初はこのデザインに戸惑われた。しかし真剣な討議の末、一同はこの構図の持つただならぬ意味を悟り、それを良しとするに至った。

 そして同年12月、那覇市の「てぃるる」で16人の呼びかけ人によって「太平洋戦争・沖縄戦被挑発者恨之碑建立をすすめる会」が発足。1,000万を目標に全国募金が始まった。短期集中の運動の結果、半年にしてブロンズのレリーフは完成。1999年8月12日慶尚北道・英陽郡で「恨之碑」の除幕式および韓日文化交流祭が盛大に行われた。日本植民地支配からの独立記念日「光復節」の8月15日をと望んだが、諸般の事情で12日となったものである。

 

(『韓国と沖縄に「恨之碑」を 上 』(2004年9月22日 沖縄タイムス・文化欄掲載)      

 

 韓国「恨之碑」除幕式の模様の一端を報告書から引用する。
<列席者は日本から約70人、ソウルから約30人を含め、約300人。関係者代表の手で幕が除かれた。列席者の眼前にに青銅色に光る「恨之碑」が広がる。「とうとうここまで来た」という思いで胸いっぱいになる。あいさつが始まる。慶尚北道知事、自治行政部、外交通商部(政府機関)、英陽郡守、遺族会代表、日本側代表(すすめる会事務局長)と続く。『この碑は、時とともに薄れていく半世紀前の歴史的真実を鮮やかに蘇らせてくれる。韓国の若い世代にも伝えていきたい』(英陽郡守)と「恨之碑」の持つ歴史的意義が語られた。

 あいさつの後は、地元からサムプリが演じられ、見事に恨(ハン)が表現された。日本側からは、約40人で参加した「月桃の花」歌舞団が自分たちで描き上げた絵画を背景に、創作曲「祈り」の合唱を捧げ、次いで沖縄のエイサーを力いっぱい演じた。韓国には戦争にまつわる碑やモニュメントは数多く存在するが、「恨之碑」のような歴史的真実を鮮明に刻み付ける碑はおそらく初めてだという。それだけに「恨之碑」が具体的に明らかになるにつれ、社会的な関心も広がった。KBSやMBS(文化放送)などのTVや新聞各紙がニュースやドキュメント番組を組んでいたのは関心の高さの表れであった。>

 韓国「恨之碑」建立から5年−。建立する会は呼びかけ人を52人に拡充、事務局態勢を整えて、再出発することになった。実質的スタートといってもいいだろう。私たちは、かつての日本植民地政策によって独自の文化や言語を奪われ、差別の犠牲を強いられた上に、いまなお「南北分断」の悲劇を負っている朝鮮半島の人々のことを思う。そして、アジアに新たな危機が作り出されようとしていることに心を痛めている。米国などの軍事大国の横暴と日本政府の後押しによってかの地の人々の尊厳がないがしろにされる事態を再び起こさせるわけにはいかない。

 私たちは「恨之碑」建立の意義を、沖縄戦の実相をアジアの視点から深め、歴史の教訓を後世に語り継ぎ平和な沖縄・アジアを作り上げる共同の取り組みと位置づけている。「恨之碑」の建立は、再び「被害者にも加害者にもならない」という強い意思表示でもある。国境をも世代をも超えて連なり、和解と相互理解に立つ共生へのエネルギーをそこから得たいと望んでいる。結びの海を中にして韓国の「恨之碑」と向かい合う形で建つ沖縄の「恨之碑」は、そのための大きな役割を果たすだろう。今回の再出発にあたって呼びかけ人を日本人・沖縄人にとどめず在韓・在日・在沖韓国人に拡充したのはその観点からである。

 さらにこの運動を推進するため、学習の場として、ほうせん花を表す「てぃんさぐとポンソナの会」を始めることにした。ほうせん花で爪を染める韓国・沖縄共通の懐かしい習慣に思いを込めての命名である。双方の文化、歴史、関係史、そして現状の学びを通して、新しい歴史と関係を作り出したい。次世代の人々にこの課題を引き継いでもらいたいと切に願っている。この学習会は今のところ2ヶ月に1回程度の開催予定。

 ところで、しばしば使われている言葉「恨」とは何だろうか。海野福寿・権丙卓共著の『恨−朝鮮人軍夫の沖縄戦』には次のようにある。

 <『恨(ハン)』は朝鮮民族固有の言葉である。日本語の恨み、怨みとは違う。金素雲『新韓国語辞典』には『遂げられない心の嘆き』とある。恨みながらも他人を怨むのではなく、自らの胸深く潜ませ、持ち続ける無念さと、それを解こうとする意識構造とでもいったらよかろうか。民族の屈辱的な歴史も『恨』である。人々はこれらの『恨』を解くためにしぶとく努力する。諦めることのない怨嘆(ハンタン)のメンタリティーが朝鮮民族の生命力を培っている。植民地時代の民族解放の志も、南北分断の現況からの統一の願いもまた『恨み』をおいては語れない>

 この機会に韓国朝鮮の「恨」に私たちの思いを重ねあわせたいものである。「建立をすすめる会」は、「碑」の名称「太平洋戦争・沖縄戦被挑発朝鮮半島出身者恨之碑」に改め、会の名称もそれに即して変更した(略称・恨之碑建立をすすめる会沖縄)。元軍夫を対象にしていたものを、思いとしては「日本軍慰安婦」にまで広げ、出身地を韓国にとどめず、北朝鮮を含む朝鮮半島全域にひろげたことによる。元軍夫の方々の大部分が沖縄に連行・上陸させられたのは、記録によれば1944年8月10日である。沖縄での除幕式はその日を覚えて2005年8月10日をと望んでいる。日本・沖縄の敗戦記念日、韓国・朝鮮の独立記念日8月15日を念頭においた日でもある。

 
(『韓国と沖縄に「恨之碑」を 下 』(2004年9月23日 沖縄タイムス・文化欄掲載)
   
   

Copyright© 2004 恨之碑建立をすすめる会沖縄 All Rights Reserved