沖縄に動員・従軍させられた元朝鮮人軍夫らの
「太平洋戦争・沖縄戦被徴発朝鮮半島出身者恨之碑」建立をすすめる会
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ともに考え、学びたい

 太平洋戦争の敗戦から60年。韓国では、至る所で「光意60年」というスローガンが掲げられている。日本の植民地から開放されて60年という意味が込められている。

 1910年、日本は「韓国併合ニ関スル条約」によって、朝鮮半島を完全に植民地とし、多くの若者と女性たちが沖縄戦の戦場に連れて来られ、「軍夫」「慰安婦」として悲惨な体験を強いられた。しかし、日本の侵略戦争を認めようとしない人たちは、「強制連行」の史実を否定し、朝鮮人は自らの意思で日本や沖縄に来たなどと声高に主張をしている。

 うその歴史を書く「教科書問題」、戦前の軍国主義の象徴である靖国神社への「首相の参拝」が大手を振ってまかり通るのは、日本帝国とその「国民」がアジア太平洋戦争地域の国々、人々に何をしたのかということを、知らないことにしている大多数の「日本人」によって、国家の戦争責任回避の姿勢が支えられていることが大きいのではないだろうか。

 また、支配者でなかった女性や庶民の戦争認識の主体的な反省の欠如、あるいは、自国民を戦争動員に駆り立てられていった。天皇制軍国主義の被害者体験が十分に思想化されていないことも、結局のところ国家の戦争論理を許容していることになる。歴史を正しく知る努力を日常化しながら、「日本とアジアの近現代史」と問い直していかなければならないと思う。

 「てぃんさぐとポンソナの会」では、朝鮮と沖縄の文化、関係史、そして現状を学ぶ場として、連続講座を開催している。会場には、韓国人の参加もあり、内容について真摯な意見が出され、活発な討論が行われることもあり、共に学びある作業の大切さを感じ、考えさせられることが多い。

  第7回講座は、23日、与那原町コミュニティ・センターにおいて、午後6時半より開催される。現在も続く、帝国主義の暴力の連鎖を断ち切る思想を、多くの方々と共有し、深めていきたい。


 
(2005年7月21日 沖縄タイムス・『発信・着信』掲載)
 
 

人権蹂躙の歴史 求められる真相究明

 1939年、巨大な軍事力保持のために、軍需生産に国民を総動員する「国民徴用令」が公布された。
 太平洋戦争が末期に入った1944年4月、植民地として 日本が支配していた朝鮮半島では「徴兵制度」が強行され、敗戦までに約20万人が徴兵され、各地の戦線に連れていかれた。

 戦争の長期化で日本は深刻な人手不足になり、朝鮮人労働者の「集団募集」、国家による「斡旋」という名目で、さらには「国民徴兵令」の「徴用」により、日本各地の炭鉱、鉱山、軍事施設に朝鮮の若者が強制連行された。その数は100万人以上といわれている。

 沖縄にも1万人以上の若者が動員され、米軍が本島に上陸し沖縄戦がはじまると、朝鮮人男性は軍夫として特攻基地の最前線に立たされ、銃撃や爆撃で多くの人たちの命が奪われた。

 阿嘉島に連行された姜仁昌(カン・インチャン)さん、宮古島に連行された徐正福(ソ・ジョンボク)さんの出身地、慶尚北道は、最も多くの数の人たちが沖縄へ強制的に連行されている。生きて故郷に帰ることができた2人は、苦難の同胞を偲び、地元と沖縄に「恨之碑」をそれぞれ1基ずつ建てたいと切望され、英陽(ヨンヤン)郡に1基建てることができた。

 戦後補償の実現を求めて戦い続けている韓国の人々や地元自治体の協力は大きく、公用地の提供、公費補助を受けることができた。
 沖縄を含め、日本では戦後補償という問題はかなり遅れている。
 沖縄での建立を進めるにあたって、どうしても英陽郡に行く必要を感じ、今月初め現地に向かった。

  「太平洋戦争被害者補償推進協議会」事務局長の金銀植(キム・ウンショク)さんたちの案内で、姜仁昌さんの家を訪ね、体験をうかがい、一緒に英陽郡の高台の「恨之碑」の前に立った。
 金城実氏の彫刻による力強いレリーフに、心がゆさぶられ、近くに建てられている独立運動に立ち上がったために殺害された150人の刻銘碑にも心を動かされた。

 沖縄に連行された慶尚北道出身者を刻銘した「餘恨碑」には、創氏改名のままの刻銘が多く、人権蹂躙の歴史の重さをあらためて深く思い知らされた。
 沖縄での建立を早く実現してほしいと願っている姜さんたちの思いをしっかり受けとめ、またの再会を約束して姜さんの家を後にした。

  大田(デジュン)で開催された「過去精算関連団体全国連席会議」(主催・正義を取り戻すための全国会議)にも参加し、活動者たちを交流する中でたくさんのことを学んだ。
 韓国では、過去の大規模な人権蹂躙・虐殺行為の真相究明や被害者の名誉挽回のために、「真相究明法」が次々と成立している。

  「強制連行問題」や「慰安婦」問題、戦後補償問題において、日本政府の怠慢により真相究明が遅々として進まない日本の現状とは著しく対照的だ。戦争中、天皇制、軍国主義、帝国主義の旗の下で、犠牲を強いられた沖縄からも真相究明を求める声を広げなければならない。

 東アジアで生きる市民と、市民として伸び伸びとつながっていくためにも、歴史の真実をしっかりと継承していきたい。


 
(進まぬ戦後補償 朝鮮人強制連行と沖縄」(2005年4月18日 琉球新報・『落ち穂』掲載)
 

 「日本は戦争に勝ち続け 戦場は拡大される一方でした
 人手不足がひどく 国家総動員法ができました
 時は1939年
 面役人や巡査を先頭に 日本から派遣された人間狩人が
 軍人護衛のトラックに乗って 人間狩りに出かけました
 ところかまわず手当たり次第 
 食事中の息子 眠っている家長
 水汲む娘 洗濯している娘を
 トラックに詰めこみました・・(略)」
 (「奴隷狩人」)

 この数日、くり返し何度も読んでいる詩集がある。歴史詩集「あなた朝鮮の十字架よ」には、かつての戦争中、日本軍国主義の巨大な国家権力によって性の奴隷として、戦場に駆りたてられた朝鮮人女性の苦難の歴史的事実が40数篇の詩にこめられている。

 「あらゆる仕打ちで気を失い 清らかな精神のたづなを放してこそ 耐えられる日々でした
 1日のノルマ50人 だが戦場に出かける前や戦闘にから帰ってから
 死の苦痛を女の子宮に注ぎ込む日には ノルマは300人
 無事に生き残るため 愛されていた故郷の人間であった記憶を かろうじて握りしめて
 獣でありえない自尊心を 胸の中に蝋燭の火のようにともして
 ジョンジャはふるさとの花の名前を呼びます・・」
 (「ノルマ」)

 この詩集は、歴史的な資料と生き証人の聞き取りにもとづいてつづられている。また、「家父長制文化」と「男性支配文化」に対する痛烈な批判が貫流している。
 帝国主義も家父長制も、それを行う道具は道具は暴力であり、暴力は國の間でも、個人の間でも決して許されてはならない。日本政府はいまだに自国の歴史に真の反省をみせていない。それを許してきたのは「日本人」の私達だ。

 女性史研究家の鈴木裕子氏は、著書「戦争責任とジェンダー」の中で、99年の少女の事件は、日本軍「慰安婦」問題を明らかな性犯罪、性暴力として捉え、処決してこなかった戦後日本のあり方が問われていると指摘している。
 戦争中、沖縄にも百ヶ所以上の慰安所が設けられている。歴史の事実を正しく認識し、学んだことを思想化する努力を怠らないようにしたい。

 
(「性と侵略」(2004年12月15日 琉球新報・『落ち穂』掲載)
 

 日本という国がかつて朝鮮を植民地支配したために、その結果として日本に住むことになったアボジ(父)とオモニ(母)。
 在日朝鮮人一世たちの生きるだけで精一杯だった日々。
 いろいろな形で、ことばや自分たちの文化、芸能、風俗といったものを失いながら、自己を否定していくような仕組みの中に組み込まれ、日本国家に同化させられてきた在日朝鮮人二世たちの悲しみ。

 自らの意志ではないものによって、日本を国としなければならなくなった民族の歴史・・・。兪瑛子(ユ・ヨンジャ)さんの語る言葉に込められた静かな怒りに、私は激しくゆさぶられていた。
 沖縄に恨之碑を建てて何を償うのか。
 若い人達に何を伝え、どんな未来をつなごうとしているのか?

 「恨」。日本語で恨みと読めば仇討ち。韓国語でハンと読めば解き放つという意味を持つ。ウチナーグチではどう読むのか。金城実さんによると肝苦りさやという言葉にあたるのではないかということだ。
 
歴史を学ぶということは、過去にあった事実を記憶することと同時に、差別や支配がもたらした苦しみや無念は決して終わらないこと、現在も終わっていないことを知ることでもある。瑛子さんの講演を聞きながら自分の思考が呼び起こされたような気がした。

 「朝鮮人を生ききること以外に、この日本で日本人と対等に同じ地平に立って生きることはできない。この地で育った日本語しか知らない在日三世たちが新しい未来を築くだろう・・・。未来には恨を伝えない、連鎖しない。恨を転じる未来に紡ぐのは芸術の力だと信じている。だからこそ、金城実さんのレリーフに期待している。どんな誤りの歴史の中で生まれたとしても、この国に生まれて良かった。この国の人たちと一緒に生きていく、そんな思いを今は亡きオモニに語りたい」

「カッチサルジャ」(共に生きよう)。瑛子さん達の思いに沖縄人として応答したい。私達の学びあいの場で日本という国を問い続けながら、私達の歴史を創りたい。

 
(「カッチサルジャ」(2004年10月21日 琉球新報・『落ち穂』掲載)
 

 「私は、自分の祖国には何も言うつもりはないし、何の要求もありません。結果的に、日帝の『手助け』をしていた立場からは、そんな資格もない。私が言いたいことがあるのは、日本だけです。日本にだけは、言い尽くせないほど、言いたいことがたくさんあります。

 李鶴来(イ・ハンネ)さんがくり返し、くり返し、何度も語った言葉が忘れられない。
 彼は、日本帝国の植民地時代に、軍属として徴用され、敗戦後は日本の戦争責任を肩代わりさせられ、「韓国・朝鮮人B・C級戦犯者」として裁かれ、処罰された。
 一国の戦争責任を負わされた理不尽さ。いつ処罰されるのかわからぬ恐怖。巣鴨プリズン(刑務所)の生活。祖国の分断と朝鮮戦争。釈放後の生活不安と同胞の自殺。支援者の存在とタクシー会社の設立。1人も斬り捨てない理念で、韓国人戦犯者62人でスタートしたタクシー会社の成功・・。

 激動の時代を生き抜いてこられた李鶴来さんとの出会いによって、沖縄の地での、「恨之碑」建立の意義が、私の中でさらに深められたように思う。
 沖縄戦を含めかつての戦争の風化が進められ、凄まじい勢いで「靖国化」が押し付けられ、戦争国家へと暴走する國のイデオロギーによって、私たちのまわりから、歴史の真実がどんどん隅の方へ追いやられている。
  一方で、拉致事件の事実が明らかにされて以後、メディアが北朝鮮を悪魔化する報道を垂れ流し、「北朝鮮憎し」のヒステリックな国民感情が形成され、軍事力の強化に拍車がかかりつつある。

 アジアに新たな危機がつくり出されようとしている現在(いま)。歴史の証言としての「碑」、国境をも世代をも超えてつながる「碑」、新しい歴史と関係をつくる一歩としてこの事業を進めていきたい。
 鳳仙花で爪を染める、共通の懐かしい習慣に思いをこめた「てぃんさぐとポンソナの会」という学び愛の場を通して、共生するアジアへの努力を持続し続ける力をたくわえていきたい。

 
(「恨(ハン)之碑の役割」(2004年8月26日 琉球新報・『落ち穂』掲載)       
 

1999年8月12日、韓国・慶尚北道・英陽(ヨンヤン)郡の地に、「太平洋戦争・沖縄戦被徴発者恨之碑」が建てられた。
 太平洋戦争中、朝鮮半島から日本軍によって強制連行された軍夫の数は1万数千にものぼると言われ、慶尚北道からは、最も多くの数の人たちが強制連行されている。

 元軍夫の姜仁昌(カン・インチャン)さんは、阿嘉島で米軍上陸、占領後に、食事もろくに与えられない中で、日本軍に引き連れられ島内を敗走・彷徨させられたあげく、「イモを盗んだ」「逃亡を図った」などの理由で、同僚12名が日本軍によって銃殺されるのに立ち会うという凄惨な体験をした。

 徐正福(ソ・ジョンボク)さんは、宮古島で、米軍機による空襲の最中に危険な荷役作業に従軍させられ、被弾、沈没した日本軍輸送船の船底で作業していた軍夫たちが海の藻くずと消えるのを目の当たりにした。
 この2人の訴えと証言をもとに、「沖縄戦の実相をアジアの視点から深め、歴史の教訓を後世に語り継ぎ、平和な沖縄・アジアをつくりあげる日本・沖縄・韓国民衆の取り組み」として、「恨(ハン)之碑」建立はすすめられてきた。そしてお互いは再び、「被害者にも加害者にもならない」という強い意志も込められている。

 「恨之碑」のレリーフ(浮き彫り)には、阿嘉島での朝鮮人軍夫の銃殺事件を題材に、目隠しされ、縄で縛られて連行される朝鮮人男性と銃を手に追い立てる日本兵、男性にすがりつく母親の姿が表現されている。「恨は、単に恨みや憎しみ、悲しみを表現するのではなく、それらを心に沈めて持ち続けてながら、それを解いていこうといこうとするもの・・。連行されながらも尊厳を失わない朝鮮人。目隠しされながらも彼の目は民族の未来をしっかりと見つめている。オモニの哀しみは朝鮮民族全体の哀しみ。そして、軍国主義によって加害者へと追いやられた日本兵の無念さも恨。これは、ヤマトンチュ、ウチナーンチュ、朝鮮人の共同作業だ」と、制作者の金城実さんは語っている。

 
(「恨(ハン)之碑」(2004年8月13日 琉球新報・『落ち穂』掲載)
   
   

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