沖縄に動員・従軍させられた元朝鮮人軍夫らの
「太平洋戦争・沖縄戦被徴発朝鮮半島出身者恨之碑」建立をすすめる会
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 屋部の高麗瓦

 
以前、名護市屋部の「屋部古島、宇茂佐古島」遺跡を訪ねたとき、その遺跡から14世紀から19世紀にかけての陶磁器と共に高麗瓦(灰色瓦)が発見されたことを知り、深く感動したことがある。古老の言い伝えによると屋部川河口にも大量の灰色瓦が積まれたいたという。

 高麗瓦とはその名の示す通り朝鮮半島由来の瓦である。大量にあるからには屋部で生産されたと推定されているが、高麗瓦の最も古いものは浦添グスクから出土した「癸鳥年高麗瓦匠造」と刻まれた、英祖王代の1273年のものである(『グスク・共同体・村』安里進)。また首里城は国立公園になって自由に遊ぶことができなくなってしまったが、周辺を散策すると、今でも赤瓦や灰色瓦の破片を拾うことができる。高麗つまり朝鮮と沖縄はそれほど身近な関係としてあったのた。

 では今日、私たちと朝鮮半島の人々との関係はどうなっているのだろうか。その朝鮮半島は今、南北に2分され、決して「幸せ」な状態ではない。親子や兄妹同士が分断されたままなのだ。しかし、この不幸の深源は日本にある。

秀吉の侵略と琉球

 日本は2度にわたって朝鮮を侵略している。1度目は豊臣秀吉の朝鮮侵略「文禄・慶長の役」(1592-98年)で、秀吉は18万の兵を送り出し、7万人の朝鮮人を労働力として拉致した。つまり日本による拉致の始まりである。
 ソウルからバスで1時間程の所に水源という町があるが、そこには当時秀吉が建造したといわれる要塞が残されている。秀吉の領土拡張は朝鮮半島のみをターゲットにしたのではない。朝鮮半島伝いに中国をも手中にいれることを考えていた。

 ここで重要なのは秀吉が琉球を利用しようとしたこととだ。中国と冊封関係にある首里王府に対して、秀吉は薩摩を通して、「兵1万人の3年間の分の食料を調達し、朝鮮へ回想するように命じた」。それに対し琉球の王国は「民の窮迫、国の小国なることを告げてその要求を断った」(「豊臣政権の朝鮮出兵と琉明関係」上原兼善)。

明治政府の朝鮮侵略

 2度目は1910年、日本帝国は朝鮮を植民地とした。植民地からは安い労働力として人々が日本に送り込まれ、そこから在日朝鮮人問題が発生し、第二次大戦では「軍慰安婦」「朝鮮人軍夫」の問題が発生する。沖縄には多数の朝鮮の女性たちと男性が拉致・連呼され、戦争の犠牲となった。では戦時中、沖縄でどのようなことがおこったのか。

 

(恨之碑建立に向けて 上」(2004年8月26日 琉球新報・文化欄掲載) 
     

 

 数万人も強制的に連行

  沖縄戦で朝鮮半島から連行されたいわゆる「朝鮮人軍夫」は数千から数万人といわれ、また性奴隷にされた「軍慰安婦」たちも41箇所の慰安所(1998年以来、国連の人権委員会では強かんセンターとよんでいる)に配置されたことがわかっているが、その実数はいまだにわかっていない。平和の礎にも南北合わせて423人(2004年6月23日現在)が刻まれているだけである。強制連行されたほとんどの人たちは、故郷で田植えや野良仕事の最中に足に泥をつけたまま「ちょっと事務所まで」と呼び出され、そのまま家族から引き離され、日本に送り込まれた。

 「軍夫」と「慰安婦」の問題の本質は根が一つであり、本来同時に語らなければならないが、ここでは「軍夫」問題に限定しておきたい。

慶良間・読谷村の証言

  「軍夫」問題が沖縄で知られるようになったのは、86年にもと「軍夫」の方々5人が、42年ぶりに阿嘉島を招魂団として訪れ、沖縄大学の土曜講座で「強制連行の韓国人軍夫と沖縄戦」というテーマで報告会がなされてからである。
 慶良間諸島には朝鮮慶尚北道の大邱一帯から、阿嘉・座間味・慶良間の3島に約350人が送られたと推定されている。「軍夫」たちは十分な食べ物も与えられないまま重労働を強制され、阿嘉島では12人が日本兵によって処刑されたと言われている(『恨(ハン)・朝鮮人軍夫の沖縄戦』海野福寿・権丙卓)。

 読谷村では「渡具知港には昭和19年末から20年にかけて輸送船の入港も激しくなり、朝鮮人軍夫(球部隊所属)数百名が西の浜から上陸し、サーターヤー周辺にテントを張って駐屯し、荷揚げ作業などの重労働に従事させられていた」(『読谷村史』)。

「恨之碑」の建立

 99年8月、沖縄に多くの「軍夫」を送り出した韓国の慶尚北道英陽(ヨンヤン)郡に金城実さんの彫刻による「恨(ハン)之碑」が建立された。建立にあたっては日本全国から募金が寄せられ、現地での総合設計は韓国青年彫刻家たちが担った。

 恨とは朝鮮民族固有の言葉で「遂げられない心のなげき」と説明されている。したがって他に向かって発せられるよりも自らにくぐもり、そこから発する感情とでもいえようか。それは沖縄戦、アメリカ・日本占領体験をしてきながら恨みつらみ表に出さず、何事も笑い飛ばしてしまう沖縄のお年寄りたちにも通じるものがある。

 もと「軍夫」の方々はすでにこうれいである。2002年には英陽の追悼式に沖縄から、平良修さんらが出席した。平良さんはこれまで沖縄にも同じ碑を建て「国境も世代をも越えてつながり、和解と相互理解にたつ共生のエネルギーを」と訴え続けてきた。もと「軍夫」の方々も生きて帰ることができなかった同胞のために、韓国と同じ碑をぜひ沖縄に建ててほしいと切望されたそうである。

  日本政府は、まだ元「軍夫」の皆さんに心から謝罪し、補償をしていない。ちなみにドイツ政府は、2000年にナチス支配下のドイツ企業で強制労働をさせられた人々に補償するために政府と経済界が協力して100億マルク(5800億円)を拠出して財団「記憶・責任・未来」を設立すると発表した(『物語日本国憲法第九条』伊藤成彦)。

 もし「恨之碑」が沖縄の地に建立されるならば、いやその作業過程に多くの沖縄のン人々が参加することができれば、韓国と沖縄の双方で「恨」を越えるなにかを育てることができるのではないか。沖縄では「碑」の建立に向けて「てぃんさぐとポンソナの会」を立ち上げることになった。

  鳳仙花のことをウチナーグチでてぃんさぐ、韓国語でポンソナという。沖縄では長年溜めてきた鬱積が噴出そうとしている。日本帝国の一部となり、そしてその内国植民地でもある沖縄の私たちが、日本帝国の植民地であった韓国の人々と向き合い、自らを相対化する視点を深化させることができれば、沖縄を生きることによって広くアジアの人々とつながっていくことができるのではないだろうか。


 
(恨之碑建立に向けて 下」(2004年8月26日 琉球新報・文化欄掲載)


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