| 数万人も強制的に連行
沖縄戦で朝鮮半島から連行されたいわゆる「朝鮮人軍夫」は数千から数万人といわれ、また性奴隷にされた「軍慰安婦」たちも41箇所の慰安所(1998年以来、国連の人権委員会では強かんセンターとよんでいる)に配置されたことがわかっているが、その実数はいまだにわかっていない。平和の礎にも南北合わせて423人(2004年6月23日現在)が刻まれているだけである。強制連行されたほとんどの人たちは、故郷で田植えや野良仕事の最中に足に泥をつけたまま「ちょっと事務所まで」と呼び出され、そのまま家族から引き離され、日本に送り込まれた。
「軍夫」と「慰安婦」の問題の本質は根が一つであり、本来同時に語らなければならないが、ここでは「軍夫」問題に限定しておきたい。
慶良間・読谷村の証言
「軍夫」問題が沖縄で知られるようになったのは、86年にもと「軍夫」の方々5人が、42年ぶりに阿嘉島を招魂団として訪れ、沖縄大学の土曜講座で「強制連行の韓国人軍夫と沖縄戦」というテーマで報告会がなされてからである。
慶良間諸島には朝鮮慶尚北道の大邱一帯から、阿嘉・座間味・慶良間の3島に約350人が送られたと推定されている。「軍夫」たちは十分な食べ物も与えられないまま重労働を強制され、阿嘉島では12人が日本兵によって処刑されたと言われている(『恨(ハン)・朝鮮人軍夫の沖縄戦』海野福寿・権丙卓)。
読谷村では「渡具知港には昭和19年末から20年にかけて輸送船の入港も激しくなり、朝鮮人軍夫(球部隊所属)数百名が西の浜から上陸し、サーターヤー周辺にテントを張って駐屯し、荷揚げ作業などの重労働に従事させられていた」(『読谷村史』)。
「恨之碑」の建立
99年8月、沖縄に多くの「軍夫」を送り出した韓国の慶尚北道英陽(ヨンヤン)郡に金城実さんの彫刻による「恨(ハン)之碑」が建立された。建立にあたっては日本全国から募金が寄せられ、現地での総合設計は韓国青年彫刻家たちが担った。
恨とは朝鮮民族固有の言葉で「遂げられない心のなげき」と説明されている。したがって他に向かって発せられるよりも自らにくぐもり、そこから発する感情とでもいえようか。それは沖縄戦、アメリカ・日本占領体験をしてきながら恨みつらみ表に出さず、何事も笑い飛ばしてしまう沖縄のお年寄りたちにも通じるものがある。
もと「軍夫」の方々はすでにこうれいである。2002年には英陽の追悼式に沖縄から、平良修さんらが出席した。平良さんはこれまで沖縄にも同じ碑を建て「国境も世代をも越えてつながり、和解と相互理解にたつ共生のエネルギーを」と訴え続けてきた。もと「軍夫」の方々も生きて帰ることができなかった同胞のために、韓国と同じ碑をぜひ沖縄に建ててほしいと切望されたそうである。
日本政府は、まだ元「軍夫」の皆さんに心から謝罪し、補償をしていない。ちなみにドイツ政府は、2000年にナチス支配下のドイツ企業で強制労働をさせられた人々に補償するために政府と経済界が協力して100億マルク(5800億円)を拠出して財団「記憶・責任・未来」を設立すると発表した(『物語日本国憲法第九条』伊藤成彦)。
もし「恨之碑」が沖縄の地に建立されるならば、いやその作業過程に多くの沖縄のン人々が参加することができれば、韓国と沖縄の双方で「恨」を越えるなにかを育てることができるのではないか。沖縄では「碑」の建立に向けて「てぃんさぐとポンソナの会」を立ち上げることになった。
鳳仙花のことをウチナーグチでてぃんさぐ、韓国語でポンソナという。沖縄では長年溜めてきた鬱積が噴出そうとしている。日本帝国の一部となり、そしてその内国植民地でもある沖縄の私たちが、日本帝国の植民地であった韓国の人々と向き合い、自らを相対化する視点を深化させることができれば、沖縄を生きることによって広くアジアの人々とつながっていくことができるのではないだろうか。
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